散歩コース
赤坂見附駅(地下鉄銀座線)~赤坂見附~豊川稲荷東京別院~高橋是清翁記念公園~旧乃木邸~乃木神社~青山霊園~乃木坂駅(地下鉄千代田線)石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部。赤坂御門は、寛永13年(1636)に福岡藩二代藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成した。江戸時代のこの門は、大山に参拝する大山道の重要な地点である。
紀伊国坂に沿って、外濠が残る。弁慶小左衛門という者が寛永年間(1624~1643)に築造した弁慶濠で明治22年(1889)に弁慶橋を架けた。
「豊川稲荷東京別院の本尊茶枳尼真天は、元来愛知県豊川市にある妙厳寺の山門の鎮守として祭られたもので、仏教では胎蔵曼茶羅外院に属する夜叉または羅刹の一種で自在の通力をもち、人の死を六カ月前に知り、その心臓を食らうといい、その法を修する者に自在の力を与えるとされる。本体を狐の精とするのは日本の考えで稲荷権現などと同一視された。」(※)
霊狐塚は、還暦100年祭を記念して建立された。
境内では、七福神めぐりができる。
「妙厳寺開山東海義易が自ら刻んだ像は、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、名町奉行として知られた大岡越前守が寛延元年(1748)に加増を受けて一万石となりこの地を領地として以後、その子孫によって、文政11年(1828)に、赤坂の邸内に勧請された。」(※)
高橋是清翁記念公園は、高橋是清邸宅の跡で、子息是賢氏と記念事業会から昭和13年(1938)に東京市へ寄附された。現在は港区の管理で高橋是清の銅像と由緒の碑がある。
昭和11年(1936)の二・二六事件で、高橋是清蔵相はこの自邸で反乱部隊に殺害された。安政元年(1854)に芝で生まれ、汐留の仙台藩邸で育った。14歳でアメリカに渡って奴隷に売られるなど苦学力行、帰朝して経済政策に力を尽くし、七転八起きの境遇を経ながら、日本銀行総裁、総理大臣、大蔵大臣などを勤めた。
邸宅は明治35年(1902)に新築され、フランス軍隊の建物を模したといわれる。傾斜した地形で、一階は応接間、客室、次室、居室(殉死の部屋)、夫人居室がある。
西南戦争の軍旗奪失事件や旅順攻撃で有名な乃木希典は、大正元年(1912)9月13日、静子夫人とともに明治天皇死去を追って自刃した。
正馬壽号は、「ステッセル」将軍の愛用した「アラビヤ」産の牡馬で明治38年(1905)水師営会見の際に乃木大将に贈らんとしたが、大将はその志を謝し直ちにこれを受けとることは軍規の許さない事なので、後日を約してこれを「壽」号と名づけて戦役中常用し凱旋後拂い下げを受け、自分の馬として愛用した。
旧乃木邸の脇にある、乃木将軍こと乃木希典と辻占い売りの少年の出会いを描いた銅像である。
旧乃木邸裏手の乃木神社は、大正12年(1923)に創建され、乃木大将夫妻が祀られている。
宝物殿には銅像、写真、御殉死の刀などが展示されている。
乃木大将がサーベルとして常用していた刀剣と、乃木大将が買い求め静子夫人の守り刀が、御殉死の刀として展示されている。
正松神社は、乃木神社戦災復興峻成を機に萩の松陰神社より、松下村塾の開祖である玉木文之進と吉田松陰の御分霊を請受け、境内に鎮祭した縁の神社です。
教育の碑は、明治40年(1907)1月に御祭神野乃木将軍が学習院院長に任命された頃に、生徒心得の為に明治天皇より賜った御製である。
青山霊園は、郡上藩青山家下屋敷に明治政府が造成した霊園で、大久保利通・犬養毅・吉田茂らの政治家、乃木希典などの軍人、小説家・思想家・著名人らの墓がある。
乃木将軍墓所は、青山霊園正面入口から入り、霊園の東北の角近くにある。
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