散歩コース
目黒駅(JR山手線)~目黒不動尊~林試の森公園~祐天寺~太子堂~三軒茶屋駅(東急田園都市線)江戸時代の建造物はすべて第2次世界大戦の空襲で焼け、仁王門は昭和36年(1961)の再建である。
目黒不動(瀧泉寺)の境内でもっとも特徴のある景観は、独鈷の滝とその滝壷を整備して作った垢離場である。寺伝によれば、九世紀のころ、円仁(慈覚大師)が手にした独鈷桙で地を一撃したところ霊泉が湧出した。それで独鈷の滝と名づけたという。
仁王門左手にある弁天堂は、弁財天像、大黒天像と元祖山手七福神の一つに数える恵比寿像が安置されている。
方形造の 前不動堂は、享保(1716~35)初期の作とされている。
「開基は円仁で、1200余年前の大同3年(808)大師自ら御木尊を彫刻し安置されたことが始まり。江戸時代には、三代将軍徳川家光の信仰も篤く、53棟にも及ぶ大伽藍が復興され、そのきらびやかさは、「目黒御殿」と称されるほどだったらしい。
成田市の成田山新勝寺の成田不動尊、熊本市・長寿寺の木原不動尊と並び、日本三大不動のひとつに挙げられる。現本堂は昭和56年(1981)の完成で、開創以来と伝承する本尊不動明王像を安置している。 江戸五色不動(目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動)の一つである。」(※)
「青木昆陽は江戸中期の儒者者、通称は文蔵。元禄11年(1698)に生まれ。父は日本橋の魚河岸で働く魚問屋であったが、昆陽には商売を継ぐ意思は薄く、できることなら学問の道で生きたいと考えていた。そして、22歳の時、両親の許しと協力を得て京に出ると、儒者学・伊藤東涯の弟子となったのである。昆陽はそこで漢字のほか、医学や薬学などについても学んだのである。」(※)
「明治33年(1900年)6月に当時の農商務省林野整理局が「目黒試験苗圃」としてスタートしたのが始まりで、その後「林業試験場」に名称を変更、林野庁の付属となり昭和53年(1978)まで営々として使用されてきた。そして、筑波研究学園都市の建設に伴い、移転した跡地を整備し、「目黒公園」の暫定開放期間を経て、平成元年(1989)6月1日に「林試の森公園」として生まれ変わり開園した。」(※)
他の公園ではあまりお目にかかれない樹木が多くあり、樹木観察には最適の地である。絶滅危惧種のハナガカシをはじめ、ヨコグラノキ、ナナメノキ、クロキといった日本の珍しい樹木やカイノキ、シナユリノキ、ユサン、アメリカトネリコなど外国産樹木の観察が楽しめる。
表門は、文化14年(1817)祐天上人の100回忌に建てられた。
正面の両脇間に享保20年(1735)法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられている。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配している。なお、頭貫上の蟇股十二支が彫られ、方向を示している。
「祐天上人は増上寺第三六代の大僧正で徳川家四代~八代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧である。寛文8年(1668)の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累(かさね)一族の怨霊を化益された事蹟あり。文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。
阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。」(※)
地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像は、寛政9年(1797)に信州松本の光明院から祐天寺に遷座されました。
この梵鐘は、享保13年(1728)に六代将軍徳川家宣の17回忌追善のため、正室天英院が鐘楼とともに寄進されたものである。
八代将軍徳川吉宗などからも崇高された、江戸時代の高僧祐天の遺徳をしのび、高弟祐海が亨保3年(1718)建立した寺院である。明治の大火で壮麗を誇った江戸以来の建物はほぼ焼失したが、仁王門・ 地蔵堂・ 阿弥陀堂・ 鐘楼などは焼失を免れた。
「太子堂は文録4年(1595)建立と伝え、木造聖徳太子立像(像高約30cm)のある太子堂の号をとって地名が生まれた。敷地内にかって清泉か沸き出していたといわれ、明治3年(1870)に村民有志が郷学所を設立し、1873年幼稚学所、そして世田谷内最初の小学校の小学荏原学校となった。
円泉寺は号を聖王山法明院といい、真言宗に属する。開山した賢恵僧都は、葛飾郡新堀村の生まれである。文禄元年(1592)、僧都は大和国久米寺から聖徳太子像と十一両観世音を背負って関東へ下った。」(※)
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