織姫とは雅な名前だが、もともとの名前ではない。織姫山は、古くは梵天山・月見山などとよばれていた。足利織物業の繁栄を祈って、明治12年(1879)に八雲神社境内から遷宮された。織物の神八千々姫命と天御鉾命がまつられるようになってからは、機神山と称された。
「当初、簡素だった機神の社殿は、大衆向けの織物「足利銘仙」の発展にともない、近代的神社建築へと姿をかえた。昭和12年(1937)に完成した現在の織姫神社社殿と社務所・手水舎・神楽殿のうち、社殿は当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りで、花崗岩がふんだんに用いられている。京都の宇治平等院鳳凰堂をモデルに、寺社建築の第一人者小林福太郎が設計した。朱塗りの社殿は、織姫山の緑によく映えてとても美しい。」(※)
境内からは、足利の市街地や渡良瀬川が眼下に臨める。現在では、足利を代表する景勝地の1つである。
「法楽寺は二代当主足利義兼の子義氏を開基とする。本堂南側には、三代当主足利義氏の墓所がある。義氏の五輪塔の周囲には、鎌倉時代から室町時代頃の大小の五輪塔・宝筐印塔が集められている。かつて、法楽寺には池があり、「阿弥陀ケ池」とよばれていた。
義氏は、和田合戦・承久の乱・宝治合戦などで活躍。母は初代執権北条時政の娘・時子、妻は三代執権北条泰時の娘で、幕政に重きをなした。また、勅撰和歌集の『続拾遺集』に入集するなど、文人としての素養にも恵まれた。仁治2年(1241)に出家後は、正義と号し、法楽寺に隠棲した。」(※)
「鎮阿寺には、4つの門がある。南門は、三間一戸・入母屋造・唐様の楼門で、室町時代の建立とされる。楼門内の両側には、鎌倉時代作の木造金剛力士像が立つ。十三代将軍足利義輝が再建したものである。
多宝塔は開基足利義兼公創建と伝えられているが現在のは、元禄五年、五代将軍徳川綱吉の母、桂昌院尼公の再建と伝えられていたが、相輪の宝珠を調査したところ、寛永6年(1629)銘のものが発見され搭の再建年代がさかのぼる事が判明した。堂内には鎌倉時代作の木造大日如来坐像が安置されている。」(※)
「足利氏宅跡に立ち、約200m四方の寺域には、堀と土塁がめぐらされている。足利氏は清和源氏で、河内源氏三代目棟梁源義家(八幡太郎)の孫の初代当主足利義康が足利荘を本拠とし、足利姓を名乗ったのに始まる。
義康は、鳥羽上皇に仕えて北面の武士となり、のち保元の乱で活躍して、昇殿を許された。その子の二代当主義兼は、平氏追討・奥州藤原氏迫討などにも活躍して初代将軍源頼朝の信頼を得、北条時政の娘(北条政子の妹)を妻とした。出家後は、法名鎮阿を称し、足利の館に隠居、建久7年(1196)に持仏堂を建てた。これが鍍阿寺の始まりという。」(※)
「初代将軍足利尊氏は暦応元年(1338)には光明天皇から念願の征夷大将軍の地位を授かり、初代将軍となった。吉野で南朝を開いた後醍醐天皇が崩御すると、尊氏は慰霊のため天龍寺(京都府)を造営した。その後、尊氏は南北朝の紛争などの軍事を高師直に、政務は副将軍の直義に任せていたが、ふたりは次第に対立を深めた。尊氏は和解の方法を探りながらも、高師直側につき、弟直義を追撃することになる。」(※)
中御堂(不動堂)は寺伝では足利義兼公の創建とあるが、文禄元年(1592)生実御所国朝の再修になる。御本尊不動明王は往古千葉県成田山より勧請せるもので興教大師の作といわれ霊験あらたかな不動明王である。
五間四面・宝形造の唐様である。建久7年(1196)に創建後、応永14年(1407)と宝永5年(1708)の修築を経ているという。鎌倉・室町時代の様式をとどめるものの、江戸時代の雰囲気も有する。堂内には、江戸時代の仏師朝雲の作とされる、木造足利歴代将軍坐像15体が安置されている。
桁行3間(約5.4m)、梁間3間(約3.6m)の入母屋造で、鎌倉時代の建造と考えられている。
「足利学校跡は坂東随一の大学として、全国にその名を知られた。近年まで、寛文8年(1668)に建立された孔子廟(大成殿)・三門を残すだけだったが、平成2年(1990)学術調査の成果をもとに、方丈・庫裏・書院・庭園や周囲の堀・土塁など、江戸時代中期の姿に復原された。
学校門は寛文8年(1668)の創建。足利学校のシンボルとして江戸、明治、大正、昭和そして平成へと継承されている。方丈の北と南それぞれに池の庭がある。この当時一般に行われていた書院庭園の形態をもつ築山泉水庭である。」(※)
字降松は読めない字や意味の解らない言葉などを、紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、翌日にはふりがなや注釈がついていたことから「かなふり松」と呼ばれるようなったと伝えられる。
学生が勉強したり、生活したりした衆寮。庫裏では学校の台所。食事など日常生活が行われていたところ。
孔子廟(大成殿)は、寛文8年(1668)四代将軍徳川家綱の時に造営されたもので、中国明朝時代の聖廟を模したものと伝えられている。
土蔵は書籍以外で大切なものを納めていた蔵である。
木小屋は薪木や農具置き場、漬け物などの食料を保管した場所である。
「足利学校の創建については諸説ある。代表的なものに、律令制下、国ごとにおかれた地方教育機関である国学を起源とする説、平安時代初期の学者・歌人小野篁が創建したとする説、足利義兼が、一族の子弟教育のため創建したとする説などがある。創建後、一時荒廃した足利学校は、15世紀に関東管領上杉憲実によって再興された。
方丈は、学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用されたところである。」(※)