新井薬師・哲学堂公園・江古田界隈
(中野駅~練馬駅)

中野駅(JR中央本線)~新井薬師~北野神社~哲学堂公園~江古田界隈~練馬駅(西武池袋線)

mark新井薬師(あらいやくし)
山門
山門
「新井薬師」の提灯
「新井薬師」の提灯

 新井山梅照院薬王寺と号し、真言宗の寺である。通称、新井薬師といわれ、天正14年(1586)僧行春によって開基されたと伝えられている。

手水舎の蓮
手水舎の蓮
手水舎の天井
手水舎の天井

本堂(瑠璃殿)
本堂(瑠璃殿)

 本尊は一寸八分の薬師如来像。子育て薬師・治眼薬師として有名である。子育て薬師の由来は、元和3年(1617)、当時の住職玄鏡が、夢想丸という妙薬をつくり、難病の子どもに与えたところ、その病気が治ったことから、また治眼薬師のほうは、寛永6年(1629)、二代将軍徳川秀忠の五女和子の方(後水尾天皇中宮・東福門院)が、長年眼病を患い困っていたが、ここの薬師に祈願したら快癒したことから、それぞれつけられたものである。

瑠璃殿
瑠璃殿

 寺の建物は、元禄6年(1688)、明和元年(1764)、明治元年(1868)、昭和20年(1945)5月の戦災など、たびたび焼失したが、本尊は幸い無事で再建されている。

不動堂
不動堂
薬師霊堂
薬師霊堂

 不動堂は不動明王と地蔵菩薩を祀るお堂で、右手前にある「願い地蔵尊」は、柄杓で水をかけ、置いてあるスポンジで自身の治したい場所をこすりながら治癒を祈願する。

願い地蔵尊
願い地蔵尊
聖徳太子像
聖徳太子像

白龍権現水
白龍権現水
弘法大師一千百五十年御遺忌
弘法大師一千百五十年御遺忌
 白龍権現水屋建立之記の説明板には、「新井の地名の由来は古文書『新井埜草別調べ』によれば「名水湧き出でたる故に村名を新井と名づく」とあり この地は名水随所に湧出せしが時代と共に次第に減じ都市化の進展に伴い名井ことごとく枯渇し新井の由来を知らすべき証し全て消失せり・・・」と記されている。
新井薬師公園
新井薬師公園
ひょうたん池
ひょうたん池

 本堂の裏手に新井薬師公園がある。大正3年(1924)新井薬師遊園として、境内の北側を一般に開放したもので、その後東京市に提供され、現在は、中野区立新井薬師公園となっている。

mark北野神社(きたのじんじゃ)
鳥居
鳥居
撫で牛
撫で牛

本殿
本殿

 祭神は菅原道真公。新井町一円の鎮守社で、昭和4年(1929)、村社に昇格したこともある。創建の年代は明らかでないが、天正年間に新井薬師の開祖といわれる僧行春が、里人と話しあって、崇拝する菅原道真公を祀る小祠を創建したと伝えられている。新井薬師は、本社の別当であったが、明治元年(1868)神仏混淆の禁止により別当職を廃し、社号を北野神社としたのである。

力石
力石
本殿前の狛犬
本殿前の狛犬

 境内の一隅に13個の力石がある。これは神社の祭礼の際、余興として若者たちが大きな石(38-70貫目)を持ち上げてその力を競い、持ち上げた石には重量・姓名を刻んで奉納したものである。この行事は単なる祭礼の娯楽だけでなく、重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた、当時の通過儀礼の一つであった。

境内社 大鳥神社
境内社 大鳥神社
境内社 稲荷神社
境内社 稲荷神社

 大鳥神社の御祭神は日本武尊である。
 稲荷神社は、江戸時代後期の文化14年(1817)に板倉勝政氏により市ヶ谷の庭内に守護神として鎮守されたのが始まりである。

神楽殿
神楽殿
紅梅
紅梅

mark哲学堂公園(てつがくどうこうえん)
梅林
梅林
公園側から眺めた梅林
公園側から眺めた梅林

 妙正寺川南側の梅林は、梅林の数は少ないが、紅白の梅の花が見頃であった。

満開の紅梅
満開の紅梅

紅梅
紅梅
白梅
白梅

整備されている散策路
整備されている散策路

哲理門
哲理門
時空岡
時空岡

 この付近一帯は、和田山とよばれ、その昔、初代将軍源頼朝が上総国から隅田川を渡って武蔵国へ入り、松橋(現板橋)へ陣取った時、初代侍所別当和田義盛がここへ陣屋を設けたといわれているところである。 哲理門の左右に天狗と老婆の幽霊の彫刻があり、前者を物質界、後者を精神界に存在する不可解の象徴とみなしたものである。
 時空岡とは、一帯の丘上の平坦をもって哲学の時間空間を表現したものである。

井上円了先生碑
井上円了先生碑
四聖堂
四聖堂

 哲学堂公園は、明治・大正期の仏教哲学者であり、哲学館(現、東洋大学)の創設者である故井上円了博士が、哲人養成のための道場として建設したものである。井上円了は大正8年(1919)に講演旅行中、中国で客死した。その後、昭和19年(1944)に故人の遺志にもとづいて、公園を東京都に寄贈したが、現在では、中野区が管理し、区民のいこいの場となっている。
 四聖堂の本堂に東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカントの世界的四哲人を奉祀している。

無尽蔵
無尽蔵
絶対城(図書館)
絶対城(図書館)

 無尽蔵は、階上を向上樓、階下を萬象庫と名付け、井上博士が内外周遊の折の記念物を陳列していた。
 絶対城(図書館)は、万巻の書物を読みつくすことは絶対の妙境に到達する過程であって、哲学界の万象はこの読書堂にありとしてこの名がある。

六賢台
六賢台
記念碑
記念碑

 六賢台には、東洋的六賢人として、日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅を祀っている。
 二人の唐子が「哲学堂図書館記」と刻まれた石板を、両側から支えている姿が愛らしい碑である。

三祖苑
三祖苑

 三祖苑の三祖碑には、ギリシャのターレス・インドのアクシャパーダ・中国の黄帝が刻まれている。

mark江古田界隈(えごたかいわい)

 江古田地区は、その昔、田畑が広がり、農家が点在し、のどかな農村地帯であった。開発が進んだとはいえ、今でも閑散な住宅地域で、都心にありながらも、郷土豊かな土地である。

江古田古戦場の碑
江古田古戦場の碑
妙正寺川
妙正寺川
 このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明九年(一四七七)太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。
 ここでの合戦は、享徳の乱(一四五四-一四八二)という長期にわたる内乱の中での戦でした。
 享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関東公方足利成氏と、太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きました。
 この乱により関東は二分され、幕府などの支援をうけた上杉方は、武蔵・相模・西上野をおさえましたが、そのとき、江戸城を根拠地とした道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。
 ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立するうえで、大きな意味をもっていました。(中野区教育委員会掲示より)

 この「江古田原・沼袋の戦い」で、道灌が勝ち、11世紀以来続いた豊島氏は没落した。

東福寺 山門
東福寺 山門
東福寺 境内
東福寺 境内

 東福寺はかつて中野宝仙寺の末寺だったが、昭和15年(1940)から奈良県初瀬山の長谷寺の末寺となった。本尊は、弘法大師作と伝えられる身長36cmほどの不動明王である。
 境内には、寺を建立した当時に植えられたといわれている大イチョウがある。中野区が指定した保存樹第一号の立札が立っている。

東福寺 本堂
東福寺 本堂
東福寺 大師堂
東福寺 大師堂

 東福寺の開山は不詳であるが、平安時代の末に江古田村の住人二郎左衛門の先祖が武州御岳神社(現、青梅市御岳)の社僧で金峯山世尊寺鈴額院の源教上人の教えを受け、堂字を建立したと伝えられている。東福寺の開基といわれているこの二郎左衛門は江古田の旧家、堀野家の祖先である。

徳川将軍御膳所跡
徳川将軍御膳所跡
大蔵院不動尊
大蔵院不動尊

 三代将軍徳川家光が狩猟のため、江戸周辺を出歩いたことは有名で、西郊の東福寺方面にも立ち寄って休息したことは古くから伝承として伝えられている。その後、八代将軍徳川吉宗が享保13年(1728)に江古田筋で鷹狩をし、東福寺で休んだ記録が残っている。

江古田の森公園
江古田の森公園
北江古田遺跡
北江古田遺跡
 ここは、沼袋丘陵の東端、妙正寺川に沿ってひろがる、縄文時代早期・前期・中期・後期にわたる低湿地遺跡です。特に中期(約四五〇〇年前)に属する、貯蔵穴などに使われた土坑から、カゴやクルミなど貴重な遺物が出土しました。
 また、祭祀に使われたと思われる一群の土器も注目され、その中には、植物の遷移を撚ってタガをかけた、赤塗りの珍しい浅鉢があります。
 この他に、投網の先につける、土器の破片でつくったオモリ(土錘)が多量に発見されました。この時代の人々が植物や動物のほかに妙正寺川あたりの魚をとって暮らしていたことがうかがえます。(中野区教育委員会掲示より)

map 哲学堂公園周辺 ウォーキングマップ

関連ページ(哲学堂公園入口バス停)

関連ページ(練馬駅)

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