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函館空港~赤レンガ倉庫群・函館山~函館「明治40年(1907)の大火で焼失した町会所にかわる施設として、函館の豪商相馬哲平からの5万円と区民の1000余円の寄付で、明治43年(1910)に建設された。昭和55年(1980)~昭和57年(1982)の改修で、明治43年(1910)創建当時に復元された。時代によって塗りかえられてきたが、このときの修復工事で、創建当時の青灰色と黄色に復元された。正面にバルコニーのある木造2階建ての擬洋風建築で左右対称、コリント式を模した円柱の和風柱頭飾りの彫刻が美しい。」(※)
「坂本龍馬は、土佐藩士坂本八平の次男として生まれた。富国強兵と海軍が、幕末の日本に必要と痛感し、薩長同盟を成立させる。船中八策を示し、大政奉還を成立させる。その1か月後、中岡慎太郎との京の定宿、近江屋に宿泊していたところ刺客に襲われ、殺害された。奇しくも33歳の誕生日である。蝦夷地(北海道)への移住計画を立てていたが、池田屋事件で計画は中止となる。」(※)
「金森洋物店初代渡辺熊四郎が、明治20年(1887)に2万石収容のレンガ造りの倉庫を完成させ、金森倉庫として開業したのがはじまりである。この辺りは、第1次幕府直轄期の享和年間(1801~04)にいち早く埋め立てられ、高田屋が造船所を築いた。幕末には新築島が埋め立てられ、外国人居留地もあった。明治40年(1907)の大火で、金森倉庫はすベて焼失した。」(※)
「函館山(334m)は、函館市街の南西部、津軽海峡につきでた函館半島の南西端にある山で、海中に噴出した火山である。頂上からの夜景はとくにすぼらしく、ナポリ・香港と並んで世界三大夜景の1つとされている。頂上展望台には、伊能忠敬の記念銘板があり、寛政12年(1800)5月28日の日記の一部「……箱館山に登て所々の方位を測……」がきざまれている。忠敬はここから東蝦夷地沿岸の測量に着手し、わが国最初の実測地図を作製した。」(※)
「松前城は和式建築最後の城郭で、蝦夷地南部を領有する松前藩の居城である。松前氏(初代藩主松前慶広)は城をもたない大名であったが、幕末に北方警備を目的に築城が許可された。旧福山館を長沼流兵学者・市川一学が縄張し、海防のために砲台を築き、三重天守を建てている。戊辰戦争では旧幕府軍の攻撃により落城、明治以降廃城となった。」(※)
松前桜の育ての親、鎌倉翁の顕彰碑。鎌倉翁は大正10年(1921)頃より約50年間松前の桜を育て、多くの品種を造りあげた方である。
北海道暁雲社の主宰で大正年間より昭和初期にかけて、活躍した本道俳句の代表的先生で、「高潮や城門を吹く花の雲」と刻まれている。
「現存の本丸御門は、切妻造・銅板葺き・三間一戸両脇戸付き櫓門で、南に面し、東方の天守閣との間に塀が取りつけられている。本丸御門をでて右には、越後村上藩内藤家の家臣で、のちに水戸藩漢学者の家僕となって学をおさめ、19世紀初めに来松した長尾山樵の「松前城下之作」と題する七言絶句の詩碑が建立されている。」(※)
「実質的な天守ではあったが、天守と記載された記録や図は存在せず、すべて「御三階櫓」と書かれている。御三階櫓は、本丸南東隅に位置し、約2.5mの低石垣を築き、その上に建てられていた。
三重三階の規模で、一階は石垣天端から約1mもの犬走状の空白地を残し、約13.6×11.8m、二階は約10.9 x 9.1m、三階が約8.2×6.4mと規則的に逓減する層塔型天守で、高さは約16.5mと宇和島城天守をわずかに上回っていた。内部一、二階は中央に身舎を置いて周囲に人側を、三階は人側のない一室である。最上階の入母屋造の屋根を除けば、装飾としての破風はなく、各階の窓上下に設けられた長押形が唯一の飾りである。」(※)
本丸表御殿玄関、屋根の唐破風の曲線などに、桃山時代の特徴があらわれている。
城跡のすぐ北側には、松前氏始祖の武田信広をまつる松前神社が至る。明治5年(1872)、松前家が寺町の一角に松世祠を設けて、代々の霊をまつったのがはじまりで、明治14年(1881)に当地に移り、現名と三った。周辺は、城内の馬場や鷹部屋があったところである。
惣門は嘉永4年(1851)の建造で、入母屋屋根の四脚門、扉口脇壁に青海波の紋様、唐戸板には紗線形の地紋彫りなどがほどこされ、唐戸の雲竜装飾もみごとである。惣門に掲げられている「曹洞宗龍雲院」の扁額は、松前出身の書家で、文化勲章を受章した金子鴎享の筆になる。
華遊山龍雲院(曹洞宗)は、松前藩2代藩主松前公広の正室桂子が、早世した長子兼広の菩提をとむらい、また2子氏広(3代藩主)の栄達を祈願するために発願し、寛永2年(1625)に創建された。桂子は、京都の公家大炊御門資賢の娘で、松前家が京都の公家からはじめて娶った女性である。
龍雲院境内にある蝦夷霞桜は、植物分類学者で元北海道大学教授の館脇操博士が、特にこの古木に「エゾカスミザクラ」と命名したものである。
仁王門は、棟札によると、宝暦10年(1760)に上棟されている。虹梁や木鼻に、雲華紋が陽刻されている。
高徳山光善寺(浄土宗)は、寺伝では、天文2年(1533)の創建とするが、『福山秘府』では、天正3年(1575)創建とされ、はっきりとしない。はじめ高山寺と号し、慶長7年(1602)に光善寺と改めた。京都百万遍知恩寺(浄土宗)の末寺である。
血脈(亡くなられた人が仏になれるようにお坊さんが与える書付)を授けられたことにまつわる伝説が残っている。
沖の口奉行所は、松前藩の蝦夷地へ出入りする船改め、積荷、出入人を改め、税役を徴収する役所で、奉行、吟味役、吟味下役、小使、足軽、手代等の役人が配置されていた。
松前の商家の多くは、近江商人や北陸地方出身の商人が多く、これらの人たちの出身地の商品を販売した。
「独特の西洋式の縄張をした五稜郭の内部には、日本の伝統建築による箱館奉行所が建っていた。箱館奉行所は、北辺の防備と蝦夷地経営のために、箱飴山麓に元治元年(1864)から工事が始められた。庁舎建物の屋根うえには望楼としての太鼓櫓を載せ、町役人詰所、御用達詰所、白洲、同心組頭などさまざまな部屋から構成されていた。」(※)
「2006年4月1日にオープンした新タワーは高さ107m、眼下に見える特別史跡五稜郭の星形の眺望が素晴らしい。展望台は五角形、塔体の断面も星形を採用、徹底して五稜郭と星形をモチーフにしている。
武田斐三郎は諸術調所教授方だった蘭学者武田斐三郎が、フランス築城法のオランダ語訳をもとに五稜郭の設計を行った、日本で最初の洋式星形城郭である。10万4000余両の工費をかけ、全国から4000人以上の石工・人夫を動員、安政4年(1857)から完成までに足かけ7年をこえる歳月を要した。元治元年(1864)には箱館奉行所も移転した。すべての工事が終了したのは慶応2年(1866)であったが、それからわずか2年で江戸幕府は崩壊してしまった。 」(※)
「土方歳三は榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ渡り、五稜郭を占領。榎本を総裁とける蝦夷共和国が成立し、陸軍奉行並に就いた土方は、新政府軍の進撃に徹底防戦で凌ぐ。しかし翌明治2年(1869)函館総攻撃を開始した新政府軍に対し、先頭に立って馬上で指揮をとっている最中、銃弾に腹を貫かれ、土方は絶命した。部隊は総崩れとなり、その6日後、旧幕府軍は降伏した。35歳。」(※)
堀のほとりや郭内に咲く桜が星形の稜郭を埋め尽くす。
敵方が容易に石垣を登れないよう、石垣の最上部を一石外に飛び出させたもので、「忍返」の一形態である。幕末頃に盛んに採用され、西洋式城郭や台場で多用された。和式城郭では、人吉城にのみ採用されている。
一文字土居とも呼ばれ、虎口内側すべてに配されていた。城外から内部の様子を隠すこと、敵方が大挙して突入してくることを防ぐ目的があった。
明治2年(1869)の箱館戦争の際に損傷した奉行所庁舎は、その2年後には明治政府により解体された。五稜郭は昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定され、その後、発掘調査や古文書・絵図・古写真の調査成果により建物外観の詳細な設計が行われ、2010年に当時と同じ場所に復元された。
五稜郭公園のお堀の内外には、ソメイヨシノを中心に、ナデン、カンザン、フゲンゾウなど、約1,600本もの桜が植えられている。
「大沼公園は道南地方で随一の景勝地で、昭和33年(1958)に国定公園に指定された。大正4年(1915)には、新日本三景にも選ばれた景勝地であり、駒ヶ岳を背景に、大沼・赤沼・専業沼の3つの湖からなる。大沼はアイヌ語の「ポロ・ト(大きな沼・湖)」という意味からつけられている。大沼は駒ヶ岳の噴火により折戸川がせきとめられてできた周囲約24kmの湖で、大小126の島があり、季節ごとの自然の変化が美しい。」(※)
大沼の湖群を形成する原因となった駒ヶ岳(1131m)は、地元では寺峰とされる活火山であり、和人とアイヌの戦いにかかわる伝説もある。記録に残る最初の大噴火は寛永17年(1640)で、噴火の影響で太平等岸に巨大津波が発生し、昆布漁船をのみ込み、700人余りが命をおとした。
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