「西区には「東海道」「横浜道」「保土ヶ谷道」という三つの古道が通っていました。
「東海道」は、江戸方からは袖ケ浦の海岸に沿って、神奈川台宿(現、神奈川区台町)の坂を下り、大通り(環状1号)に出て勧行寺の前を通り、浅間下交差点を横切って浅間下公園の中を抜け、浅間神社へと続いていた。そして、追分、現在の松原商店街を通り、天王町、帷子町を経て保土ヶ谷宿へつながっていました。
「横浜道」は、初めは「しんみち」と呼ばれていた。浅間下交差点近くの薬局横が起点で、岡野・平沼新田の埋立地と海面の境に盛土して道とし、帷子川、石崎川の河口に「新田間橋」「平沼橋」「石崎橋(現、敷島橋)」が架けられました。戸部からは野毛山に切通しを開き、都橋、吉田橋関門を経て開港場に至っていました。
「保土ヶ谷道」は、保土ヶ谷宿と戸部村を結ぶ古道で、現在の保土ヶ谷区岩間町大門通り交差点で東海道と分かれ、鉄道線路をこえて安楽寺から左折、藤棚商店街を通り、願成寺の下の道を通り暗闇坂を抜け、伊勢町商店街から「横浜道」に合流していました。」(※)
安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ケ月前の3月になって、やっと工事が始まるという状況である。当時は、東海道筋から横浜への交通はまことに不便を極めたことから、幕府は東海道筋の芝生村(しぼうむら・現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開いた。(西区歴史さんぽみち 横浜道の一部参照)
起点入口の路面上には、東海道(写真左)と横浜道(写真上)の飛び石サインが設置されている。また、古道の途中にも、いくつかの飛び石サインが埋め込まれており、道筋を迷わずに歩くことが出来る。
平沼橋南側の細い脇道が横浜道で、元平沼橋へ通じている。
東海道と開港場横浜村とを最短距離で結ぶ横浜道の第二目の橋。帷子川に架かるこの小さな橋がもともとの「平沼橋」で、横浜道に平行して道幅の広い新横浜通りができ、この橋のすぐ上に大きな橋が架けられ「平沼橋」と命名されたため、古い橋を「元平沼橋」と改称しました。このあたり一帯は、新田地帯で明治30年代くらいまで、たくさんの塩田があったとされています。
元平沼橋から平沼商店街側へは、線路があり渡ることが出来ないので、一旦戻り平沼橋の歩行者用エレベーターを使って渡る。
平沼商店街入口の交差点には、昭和25年(1950)創業の老舗つけ天そば屋の「角平」の店がある。
石崎川は西区だけを流れている川で、平沼新田が開発された江戸時代には用水路として整えられた。
川沿いの「石崎川プロムナード」は桜の名所で知られ、橋の上からは川面に映る桜並木を楽しむことができる。
岩亀横丁(戸部4丁目)から野毛の切通しまでは、横浜市西区が整備した散策ルート「温故知新のみち」に重なっており、「横浜道」と「温故知新のみち」の二つの飛び石サインを見つけるとができる。
伊勢山皇大神宮入口を左折ると紅葉坂と呼ばれ、伊勢山皇大神宮、掃部山公園、横浜能楽堂など横浜開港以来の史跡、文化施設、公園などがある。
成田山横浜別院は、成田山新勝寺の横浜別院で、通称は野毛山不動尊と親しまれている。平成27年(2015)新本堂が完成し、11月25日に入仏式法要が営まれた。
開港間もない頃の戸部・野毛の丘には、横浜の行政事務や地域の取締りを行う神奈川奉行所や官舎などが置かれていたほか、横浜道・保土ヶ谷道に沿って関門や番所が設けられるなど官庁街が形成されていた。
安政6年(1859)、東海道と開港場を陸路でつなぐ横浜道を通すために野毛の山が切り開かれ、この辺りは野毛の切通しと呼ばれ、直角に曲がって、野毛、吉田橋へと続く道になりました。開港場を目指して全国から集まる人々や物資が行き交い、輸入された様々な文物もまた切通しを通り全国に伝えられました。
現在の切通しは昭和3年(1928)に市電長者町線の整備の際に道幅を拡幅・切り下げてしてできたもので、東側の石垣はその頃に築造されたものである。西側の野毛山住宅亀甲積擁壁(旧平沼専蔵別邸石積み擁壁及び煉瓦塀)と共に、往時の壮観を今に伝えている。
「野毛山一帯はかつて横浜の代表的生糸商人である原善三郎や茂木惣兵衛らが邸宅を構えたところである。大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害をだしたあと、隣接する野毛山貯水池・市公舎・病院跡などをあわせて整備され、昭和元年(1926)、和洋折衷の三様の庭園をもつ野毛山公園として開園した。」(※)
ヘンリー・スペンサー・パーマーは、外国人として日本最初の近代水道である横浜水道の設計・設置を行うとともに、横浜港の第一次築港計画を立案した人物で、「横浜の水と港の恩人」といわれている。
野毛大道芸は、メイン会場(野毛本通り)付近で開催され、毎年大勢の観光客で賑わいを見せる。
「横浜が開港する際、東海道と開港場を結ぶ「横浜道」が突貫工事で進められ、大岡川を渡る「野毛橋」が架けられた。この時、関外エリア最初の町「吉田町」が誕生します。明治期に初代横浜駅が開業、交通量が増え、野毛橋の架替に伴い、近隣に新しい橋を作ることになまりした。これらの橋は古今和歌集にある「見わたせば 柳桜を こきませて 都ぞ春の 錦なりける」から、それぞれ命名されました。」(※)
横浜屈指の飲み屋街として人気の「野毛都橋商店街ビル」は、戦後の野毛を象徴する建物として平成28年(2016)に横浜市の歴史的建造物として登録された。
野毛橋が架けられた時、関外エリア最初の町「吉田町」が誕生し、伊勢佐木町と野毛町の間の、横浜市の中心街である。
「安政6年(1859)6月2日、横浜開港となって交易場、貿易港として栄えるにいたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜道を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入江であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより、「吉田橋」と呼ばれました。」(※)
吉田橋関門跡の南側が伊勢佐木町通りで、北側は馬車道を通り横浜港に至る。